東條英機 天皇を守り通した男



 坊主頭に髭を生やし、メガネの奥には鋭い眼光が宿っている。 「カミソリ」 との異名をとった彼を、今でも軍国主義の象徴的存在として忌み嫌う人が多い。
 ― 東條英機。 今さら説明はいらないだろう。 先の戦争で、その端緒を切った男である。
 これほど毀誉褒貶の激しい人生を歩んだ男も珍しい。
 開戦劈頭にもたらされた日本の大戦果は、東條を 「今世紀の英雄」 「救世主」 へと一気にまつりあげた。 一般国民は親しみをこめて彼を 「東條さん」 と呼んだ。 それが戦後になると一転、極東国際軍事裁判におけるA級戦犯として裁かれ、その名は呼び捨てにされた。 死してなお、厳しい批判にさらされている。
 けれども、果たして彼は本当に 「軍国主義の象徴」 であっただろうか。 あの戦争を始めた 「首謀者」 であっただろうか。 言うまでもなく、史実をたどれば東條は開戦時の首相である。 しかしそれは、彼が 「確信犯」 として戦争を始めたことを示すものではない。
 国際連盟の脱退、支那事変の泥沼化、三国同盟の締結。 アメリカによる対日経済封鎖は、日本がもがけばもがくほど、日米開戦へと傾いていった。 近衛文麿は途中で政権を投げ出した。
 そんな中、天皇陛下の意思を絶対のものとする東條に白羽の矢が立った。 戦争を望まぬ昭和天皇の思いを実現させるには東條しかいない。 いわば苦肉の策だったと言っていい。 しかし、涙ぐましい日米交渉は失敗に終わった。
〈 東條は十二月六日の深夜、天皇のご意思に沿えず開戦にいたったことを悔やみ、号泣した。 ( 中略 ) 「戦争をしなければならぬように仕向けた米国」 の力の前に屈したのだ。 東條にとつて絶対であったお上のご意思を理解しようとしない米国を憎み、悔し涙を流した 〉
 このとき、彼は嫌悪すべき 「軍国主義」 の代名詞として戦後に自分の名が残ることになろうとは、想像すらしていなかったに違いない。
 そもそも東條は、決して陸軍内で傑出した存在ではなかった。 当時の 「皇道派」 対 「統制派」 という派閥の図式に翻弄され、久留米の旅団長や関東憲兵隊司令官などに左遷されたこともある。 石原莞爾や永田鉄山など異彩を放つ 「天才型」 に比して、 「努力型」 の人であったと言えるだろう。
 妻かつ子によれば、苦しい家計の中でも部下が金に苦労していると知れば、東條はそれを都合してやったという。
 そんな東條が時の首相に担ぎ上げられたのは、時世というほかない。
 もちろん、そのことで東條の戦争責任がなくなるわけではない。 司馬遼太郎氏は、先の戦争を 「戦争というより棄民というにちかい」 と述べている。 ニユーギニアで、ソロモンで、インパールで、戦闘経過を見ればまさしくそれは 「棄民」 であつた。 あまりにも杜撰な作戦計画と 「戦陣訓」 の呪縛は、多くの兵士を死地においやった。
 しかしそれは、極東国際軍事裁判で裁かれた罪状とはまったく別物である。 戦後の私たち日本人は、ここのところを混同した。 その混同は、今も続いていると言っていい。 東條ひとりに責任を負わせることで、先の戦争を省みることなく、冷静に検証することもなく、戦後を生きてきた。 東條英機という男をヒトラーと同じ独裁者として裁くことで、マスコミも国民も、自らの変節に頬かむりをした。 本書の言葉を借りれば、〈日本国民は東條を標的とすることで、開戦に追い込まれた経緯を振り返ることなく、短絡的に心の平安を得た〉のである。
 極東国際軍事裁判で、東條は 「敗戦については、当時の総理大臣である自分の責任であること」 を認めている。 本書の東條礼賛の向きにはやや違和感を覚えるが、しかし東條英機という男に対する世間の眼差しは、そろそろ変わってきてもいい。 「頬かむり」 のためでもなく、イデオロギーのためでもなく、冷静に東條という男を検証すれば、それはそのまま鏡として、日本人の姿を映し出すはずである。