Tokyo Trial as judged by intellectuals
世界が裁く 東京裁判
( Tokyo Trial as judged by intellectuals )

 裁判は2年半にわたり423回も開廷し、鳴物入りで日本を糾弾したが、要するに、勝者の敗者に対する一方的断罪であった。 日本の立場を完全に無視しており、パール - インド判事の名言を借りれば、 「歴史の偽造」 なのである。 それに、 「法律なければ犯罪なし」 の原則に反する。 しかも、わが国民は戦勝国の世論操作によって洗脳され、いまだに裁判の真相を理解していないこれを是正せぬ限りわが民族の精神的独立は回復しがたい
 東京裁判は裁判官も検察官も戦勝国代表で構成しているものであって、その点で公正を欠くのだが、日ソ中立条約に違反して満州に侵攻し、虐殺略奪をほしいままにしたソ連には明らかに日本を裁く資格は皆無である。 また、66都市を無差別爆撃して40万の非戦闘員を殺戮したうえ、日本が終戦を模索していることを知りながら、原爆を投下したのは、天人ともに許さざる重大な国際法違反である。 さらに加えれば、日本弁護団が用意した却下・未提出資料は全8巻にも及ぶ。 歴史の真実を記録公表する意味は大きい。 戦勝国によって言論の自由を奪われた日本の場合は特にそうだ。
 日本国民みずからの手で主体的再審を行って、日本民族にとり歴史の真実とは何であったのかを、先人ならびに児孫のために明らかにすることが肝要である。


注目すべき文献 『東京裁判とそれ以後』

 東京裁判を法的ないし政治的観点から批判する書物や文献はその数少しとしないが、特に重要と思われる国際法の視点からの批判を行なった最近の研究書に、1993年にイギリスで出版された『東京裁判とそれ以後』 ( B.V.A.Roling and Antonio Cassese, The Tokyo Trial and Beyond, Polity Press, Canbridge )が挙げられる。
 本書は、二人の著名な国際法学者の共著のかたちをとっている。 著者の一人は、東京裁判にオランダ代表判事として参加され、その後フローニングン大学で刑法および国際法の講座を担当されたベルト・レーリンク( Bert [Bernard] Victor Aloysius Roling )博士であり、他の一人はイタリアのフイレンツェ大学の国際法担当教授( 大学研究所教授を兼任 )であり、現在旧ユーゴスラビア戦争犯罪国際法廷( オランダ - ハーグ )の裁判長の職にあるアントニオ・カッセーゼ博士である。
 レーリンク博士はこの書物の中で、ある興味深いエピソードについて述べているが、東京裁判に対する博士の心情の一端が洩らされているように思われる。

 レーリンク判事は日本に在任中、GH( 占領軍総司令部・参謀第二部 )の長であったウイロビー将軍と、テニス仲間として親交を結んだが、任務終了して帰国に先だち別れの挨拶のためウイロビーを訪ねたが、その時ウイロビーは 「この裁判( 東京裁判 )は、有史このかた最悪の偽善であった」 ( This trial was the worst bypocrisy in recorded history. )と語り、さらに、この種の裁判が行われる以上、自分の息子には軍務に就くことを許さないと述べた。 ウィロビーがいわんとしたのは、日本が開戦直前に置かれたような状況にもしアメリカが置かれたなら、アメリカとても日本と同様に戦争を遂行したであろうし、その結果敗戦したら重要な責任ある地位にあった軍人が戦争犯罪人として裁かれるというのは、許しがたい ということであった。
 これに関連して、レーリンク博士はウィロビーの言葉を正しいと認めて、1973年の石油危機の際の実例を挙げ、アラブ諸国側がアメリカヘの石油供給の打ち切りをもって脅かした時に、アメリカは軍事力行使の脅迫によってこれに対応し、国防長官シュレジンジャーが1974年1月の演説の中で 「石油供給の安全を確保することは軍部の責任であるから、石油供給を守るため軍事力が行使されるリスクが存在する」 と述べた事実に触れている。 そして博士は、開戦前の日本への連合国側による石油輸出禁止措置に言及し、日本にはその石油事情からして二つの選択肢しかなかったこと、すなわち、戦争を回避し、自国の石油ストックが底をついて、自国の運命を他国の手に委ねるか、あるいは、戦争に打って出るかの二者択一を迫られていたことを指摘し、その結果遂に日本は開戦に踏み切ったのだが、ウィロビーが語ったのは 「自国の死活的利益がこのようなかたちで脅かされる場合には、どこの国でも戦うだろう」 日本が戦ったのは自存自衛のためだったことを含蓄する言葉 ということだったと結んでいる。 大東亜戦争に突入した日本のやむを得ざる事情について、レーリック博士が正確に理解していたことが、これによってもよく知られる。


不戦条約の解釈と東京裁判

 重要なのは、戦争が 「侵攻戦争」 であるか 「自衛戦争」 であるかを誰がいかなる基準に拠って判断するかであるが、アメリカ国務長官ケロッグが言明したように、実際には各国家が 「自己解釈権」 ( Right of auto-interpretation )を行使して、みずから判断するものとされた。
 また、 「侵攻」 ( aggression.その原義は、挑発されないのに行う攻撃 )の国際法的定義は未確定で、国際社会で曲がりなりにも一般的な定義が作成されたのは、戦後の1974年12月のことであった。
 こういう国際法的状況にもかかわらず、1946年~1948年に行われた東京裁判が、不戦条約によって 「侵攻戦争」 は犯罪 平和に対する罪 にされているとの連合国側の独断的な主張を認め、日本の遂行した戦争が( 少なくとも日本の自己解釈権の行使においては ) 「自衛戦争」 と認められるにもかかわらず、杜撰な歴史認識のもとに 「侵攻戦争」 ― 翻訳係が、“侵略戦争”と悪訳した。 現在では、外務省の国際法関係の要職にある人も、“侵略”がアグレッションの正確な訳語ではないことを認めている であると強弁し、東條元首相以下の戦時指導者個人に、いわゆるA級戦犯としての戦争責任なるものを追及したが、このようなことは、かつて前例がなく、また実定国際法の許容する ところではなく、東京裁判自体が悪質な国際法侵犯の事例として非難されることになった。


若干の重要問題に関するレーリンク博士の見解

 日本に開戦を決意させ、ハワイを攻撃させることになる1941年11月26日のハル・ノートについて、レーリンク博士は次のように述べている。

 ( 日米交渉に関連して )日本の見地からして、アメリカ( イギリス・支那・オランダ )側のとった行動のうち最も重要なものは、石油禁輸であり、日本はこの禁輸措置が解かれることを切望すること非常なものがあった。 11月26日にワシントンの態度が明確にされたが、それは、日本がインドシナおよび支那から撤退することが経済的譲歩の代償とされるというものであった。 しかし、日本政府としては( いかなる政権であっても )そのような代償を支払う意思も能力も持てなかった。 ハルが提示した諸条件は端的に戦争を意味しており、そのことをハルは知っていた。 彼はスティムソン陸軍長官やノックス海軍長官に 「問題は今や貴下の手中にある( The matter is now in your hands )」 と語った。 アメリカ政府は戦争が始まることを確信していたが、それが日本によって開始されることを熱望していた。 “われわれは、あまり多くの危険がもたらされないようにしながら、日本を操って最初の第一撃を発射するようにさせなければならない” と、確かにハルは言った。

 アメリカ下院議員を勤めていたハミルトン・フイッシュなどの調査によって、現在では、ハル・ノートの原案を作成したのが財務次官補ハリー・D・ホワイト( ソ連のスパイであったことが後に判明している )であったことが確認されており、ルーズベルト一味の対日挑発企画はソ連の世界赤化戦略に副うものであったことが、外交史家の知るところとなっている。

 BBC( イギリス放送協会 )が制作したテレビ番組 「真珠湾攻撃・暗号を解いた情報部員たち」 ( 平成元年12月8日にNHKスペシャルとして放映された )が生き証人を並べて実証しているように、ルーズベルト大統領と数名の閣僚は真珠湾に迫る軍事的危機を知っていながら、真珠湾の防衛責任者たるキンメル海軍大将やショート陸軍中将にその情報を知らせず、二千有余のアメリカ人将兵を犠牲にしたのである。 1944年11月28日にアメリカ下院で、共和党のD・ショート議員は 「真珠湾攻撃に関するすべてのいきさつと真実が語られ、白日の下に曝されるならば、アメリカ国民は衝撃を受け、激怒し、かつ悲嘆にくれるだろう。 彼らの心は深い悲しみに包まれ、激しく傷つけられるだろう」 と演説している。
 レーリンク博士は、日本政府が実質的に正式な開戦宣言に相当するものを、真珠湾攻撃に先だってワシントンに通告する意図をもっていたことを認めており、真珠湾へのだまし討ちなる罪科は、法的には十分な根拠があるとは決していえず、マッカーサー自身は当初東京裁判に、真珠湾攻撃をのみ取り扱う短期の裁判( アメリカ軍の汚名をすすぐことを主目的とするもの )を望んでいたことを博士に率直に語っていたことを明らかにしている。


「政治権力の道具に過ぎなかった」 ( ダグラス連邦最高裁判事 )

 東京裁判の実態が明らかになるにつれ、アメリカのマスコミにも批判的な論調が現われた。
 原爆を 「悪魔のためのとんでもない凶器」 と非難していた黒人コラムニストのジョージ・シヤイラーは当時、『ピッツバーグ・クーリア』 紙に、次のような記事を書いた。

 現在、罪のない人びとがおびえているのは、弾圧と略奪の恐怖である。 日本では主な軍人や政治家、財界人が次々と拘束され、軍事裁判にかけられている。 それを行なっているアメリカ人は、あたかも汚れなき花のように、侵略の意識のかけらもない。
( レジナルド・カーニー『20世紀の日本人』 p.165 )

 アメリカの法曹界にも批判的な人がいた。
 東京裁判の判決が下された昭和23年( 1948年 )11月、東京裁判の被告たちがアメリカ連邦最高裁判所に再審請求を申し立てた。 「国際軍事裁判」 の判決の再審請求をアメリカ連邦最高裁判所に訴願すること自体が実は奇妙なことなのだが、ともかくこの請求は一旦受理され、結局却下された。 この却下理由について同裁判所のW・O・ダグラス判事は、1949年( 昭和24年 )6月27日の意見書の中で、いみじくも次のように述べている。

 極東国際軍事裁判所は、裁判所の設立者から法を与えられたのであり、申立人の権利を国際法に基づいて審査できる自由かつ独立の裁判所ではなかった。 それ故に、パール判事が述べたように、同裁判所は司法的な法廷ではなかった。 それは、政治権力の道具に過ぎなかった。
( 佐藤和男『憲法九条・侵略戦争・東京裁判』 p.94 )

 東京裁判が 「司法的な法廷」 でない、つまり正式な裁判ではない以上、再審請求も成立しないという理屈から再審請求は却下されたのである。
 アメリカにおける東京裁判批判の決定打となったのは、歴史学の権威であったチャールズ・ビアード博士が1948年( 昭和23年 )、アメリカの公式資料に基づいて『ルーズベルト大統領と第二次世界大戦』 なる著書を発表したことであった。 博士はその著の中で、

 日本が真珠湾を攻撃するより数ヵ月前にルーズベルト大統領はアメリカをして海外に秘密なる軍事行動をなさしめた。
( 菅原裕『東京談判の正体』 p.328~329 )

と指摘し、戦争責任を問われるべきは日本ではなく、ルーズベルト大統領だと訴えたのである。
 東京裁判の菅原ゆたか弁護人によれば、アメリカの要人たちもビアード博士が学界の権威であるだけに弁解の余地もなく、 「もしそうなら戦犯も追放もあったものではない。 アメリカから謝罪使を送らねばなるまい」 という者や、 「いまさら謝罪もできないから、この上は一日も早く日本を復興させて以前に戻してやらねばならぬ」 という者もあったという。
 かくして内外で東京裁判批判が続出するなかで、裁判の事実上の実施者である連合国最高司令官であったダグラス・マッカーサー元帥自身が、1950年( 昭和25年 )10月15目、ウェーキ島でトルーマン大統領と会見した際に、 「東京裁判はあやまりだった 」 と告白したと言われている。
 マッカーサー司令官は公式の場でも、1951年( 昭和26年 )5月3日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会で次のような答弁を行なった。

 日本は、絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。 彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。 その他実に多くの原料が欠如してゐる。 そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。
 もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼らは恐れてゐました。 したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです。
「東京裁判日本の言明』 pp.564~565 )

 マッカーサー元帥は東京裁判の判決に対して、連合国最高司令官として再審の権利を有していた。 にもかかわらず、その権利を行使することなく、検事側の主張を全面的に受け入れた判決を無条件で容認し、東條元首相らの死刑を碓定させた。 そのマッカーサー元帥が、僅か2年も経たない内に、 「東京裁判は誤り」 であり、 「大東亜戦争は自衛戦争だった」 と告白したのである。
 これは一体どういうことだろうか。 東京裁判で処刑された被告たちの立場はどうなるのか。 犯罪国家とのレッテルを貼られた日本の立場はどうなるのか。 全く勝手なものである。


「戦犯裁判は負けることを犯罪とした」 ( モントゴメリー子爵 )

 この連合国の行為がどれほどひどいことであったか。 卑近な例にたとえて言えば、時速60キロを高限と定めていた道路を60キロで走っていた車に対し、 「これからこの道は時速40キロを高限とする。 スピード違反は重大な犯罪であり、死刑とする。 また、同乗者も一緒に乗っていた以上、罪を犯したことにする」 として刑の執行を言いわたした。
 後から勝手に作った法律で、その法律ができる前の行動を犯罪とされてはたまったものではない。 このため、法治主義を採用した近代国家においては、国内法上、遡及的立法の禁止は刑法の基本原則の一つとなっている。 この原則はアメリカの憲法の第一条にも定められており、 「法ナケレバ罪ナク法ナケレバ罰ナシ」 というラテン語の法諺ほうげんで表現されている。 連合国は、この事後立法禁止の原則をいとも簡単に踏みにじったのである。
 また、このロンドン会議では1943年( 昭和18年 )10月の 「モスクワ宣言」 以来受け継がれてきた方針 敗者のみを裁き、勝者たる連合国側の戦争犯罪はすべて免責する を公式に採用した。 国際法上、戦争は犯罪でなかったにもかかわらず、戦争に負けた日本人は戦争をしたことで犯罪者とされ、戦争に勝ったアメリカ人は同じことをしても罪を問われないとしたのである。 勝者も敗者も、権力者も一般庶民も何ら区別することなく、等しく適用されるから 「法」 は 「法」 たり得るのであって、敗者にしか適用されないのではそれは 「法」 とは呼べない。
 敗者であるが故に戦争犯罪人として裁かれる その方針は、とりわけ連合国側の軍人に複雑な感想を抱かせることとなった。 イギリスの子爵モントゴメリー元帥は次のような声明を出している。

 ニュルンベルク裁判は、戦争をして負けることを犯罪とした。 敗者側の将軍たちは裁判に付され、絞首刑に処せられるというわけだからだ。
( ハンキー卿『戦犯裁判の錯誤』 pp.231~232 )


連合国の許しがたい背信行為

 日本政府の条件付終戦を意味する 「ポツダム宣言」 を、連合国側が日本政府に通告したのは、1945年( 昭和20年 )7月27日のことであった。 この宣言を日本政府は8月14日に受諾し、翌15日、昭和天皇の 「玉音放送」 を通じて日本国民は敗戦を知った。
 当然のことながら日本政府は、ポツダム宣言の受諾が我が国の敗戦を意味していたことは判っていたが、その 「敗戦」 はあくまで 「条件付」 だと受け止めていた。 このため日本政府は、連合国の戦後処理がポツダム宣言の 「条件」 を忠実に履行するように監視し、そうでない場合には厳重に抗議すべきだと考えていた。
 ところが、ポツダム宣言を日本政府が受諾した直後から、連合国側、特にアメリカ政府の様子がおかしくなってくる。 9月2日、米戦艦ミズーリの艦上で、日米両国の政府代表が、政治的宣言であるポツダム宣言を条約化することによって法的拘束力のあるものとする 「降伏文書」 に調印した。 日本政府は 「ポツダム宣言」 を受諾し、 「目本国軍隊の無条件降伏」 をひとつの条件に休戦することに合意したのだから、調印したのは国際法上厳密に言えば 「休戦協定」 である。 それを連合国側は意図的に 「降伏文書」 と名付けたのである。 この言葉の言い換えが何を意味するのか。 アメリカ政府は9月6日、トルーマン大統領の承認を得て 「連合国最高司令官の権限に関するマッカーサ元帥への通達」 を発した。 その通達にはなぜか、 「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。 貴官の権限は最高である」 と記されていた。
 アメリカ政府が初めから日本政府を騙すつもりであったのかどうかは不明だが、 「降伏文書」 にサインし、日本側が武装解除を始めた途端、アメリカは対日姿勢を急変させた。 「日本政府は無条件降伏をしたのだから、占領政策を遂行する上で、日本政府の権利に配慮する必要など全くない」 と言い放ったのである。 正式な国際条約を踏みにじる許しがたい背信行為と言えよう。
 この通達を受け取ったマッカーサ元帥は9月15日、 「日本政府とマッカーサ総司令部が占領行政をめぐって交渉している印象を与えるニュースを配信した」 という理由で、発行停止処分を課した同盟通信社の業務再開を許可するにあたって、次のような声明を発表した。

 マッカーサ元帥は、連合国はいかなる点においても日本国と連合国を平等とみなさないことを、日本が明確に理解するよう希望する。 日本は文明諸国間に地位を占める権利を認められていない。 敗北せる敵である。 最高司令官は日本政府にたいして命令する。 交渉はしない。

 この声明を聞いて驚いたのは日本政府である、ポツダム宣言受諾に伴う日本の国際的地位について十分に研究していた外務省の萩原徹条約局長は、

 日本は国際法上、条件付終戦、せいぜい有条件降伏をしたのである。 何でもかんでもマッカーサーのいうことを聞かねばならないという、そういう国として無条件降伏をしたわけではない。
( 佐藤和男 「東京裁判と国際法 」、『大東亜戦争の総括』 p.207 )

と反論したが、GHQの怒りを買って萩原局長は左遷を命じられてしまう。 連合国側は 「ポツダム宣言」 を遵守する気がないのか 日本政府部内に暗い影が差し始めた。


「侵攻か否かの決定権は自国にある」 ( ケロッグ国務長官 )

 「 条例」 を絶対視した多数派判決は、国際法を無視した上で成立したのだが、その事実を認めることは連合国側にとって得策ではない。 よって 「裁判は、国際法に基づいていた」 とするニュルンベルク裁判の判決を引用して、東京裁判もまた国際法に基づいていたのだと、多数派判決は次のように主張することも忘れていない。

 1946年5月に本裁判所はこの弁護人の申立[清瀬弁護人の管轄権動議]を却下し、裁判所条例の効力と、それに基づく裁判所の管轄権とを確認し、この決定の理由は後に言い渡すであろうと述べたが、その後にニュルンベルクで開かれた国際軍事裁判所は1946年10月1日にその判決を下した。 同裁判所は、他のこととともに次の意見を発表した。
 「 裁判所条例は戦勝国の側で権力を恣意的に行使したものでなく、その判定の当時に存在していた国際法を表示したものである」 「問題はこの[ パリ不戦 ] 条約の法的効果は何であったのかということである」 。
 当裁判所はニュルンベルク裁判所の以上の意見と、その意見に到達するまでの推論に完全に同意する。

 「 国際法を表示したもの」 と主張するが、その根拠は何か。 多数派判決は 「パリ不戦条約」 について触れているだけで、何ら具体的な説明をしていない。
 実は東京裁判の冒頭陳述でキーナン検事が、 「世界の全文明国は、世界の一般的良心の要求に従って行動し、厳粛な誓約と協定によって、侵攻戦争が国際犯罪であることを認めて、そのように宣告し、それによって戦争の違法性を実定国際法規として確立した」 と言明し、この主張を裏付けるために、1928年( 昭和3年 )パリで調印された 「不戦条約」 ( 戦争放棄に関する一般条約 )を引用している。 この検事側の主張を多数派判決は支持したのである。
 それでは、キーナン検事が述べたように、 「不戦条約」 は果たして侵攻戦争を違法化したのか。
 この不戦条約は第一次大戦後の1927年( 昭和2年 )、フランスがアメリカに提案し、ケロッグ国務長官がこれを世界の主要国家間の条約に拡大するよう主張したことに端を発し、その後関係諸国間で交渉が打なわれて締結に至った。 なぜフランスは不戦条約の締結をアメリカに持ちかけたのか。 第一次大戦後、国際安全保障体制を確立するために国際連盟が結成されたものの、強国アメリカが不参加であったことから、ドイツの台頭に危機感を抱いたフランスが何とかヨーロッパの安全保障体制にアメリカを巻き込もうと考えたのである。 第一次世界大戦終了後、未曾有の惨禍を伴った大戦を経験した諸国民の間には、平和維持への願望が強く、戦争の 「違法化」 を求めるべく、種々の努力が試みられた。 「不戦条約」 はその努力の一環として締結されたという側面も否定はできないが、その発端の動機は国際連盟体制の不備を補うことにあったのである。
 起草者たる米国務長官ケロッグと原提案者たる仏外相ブリアンの名前をとってケロッグ・ブリアン( または、ブリアン・ケロッグ )条約とも呼ばれる本条約は、第一条において、戦争を実質的な防衛戦争、すなわち自衛戦争( war of self-defense )と、防衛的でない攻撃( 侵略 )戦争( aggressive war, war of aggression )とに分けて、後者を違法化しようと試みた。 その第一条には、 「締結国は、国際紛争解決の為戦争に訴うることを非とし、且その相互の関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各自の人民の名において厳粛に宣言す」 とある。
 ここで非難された 「国際紛争を解決するための戦争」 と、放棄された 「国家の政策の手段としての戦争」 とは、自衛戦争ではない戦争、すなわち侵攻戦争であるという了解が準備交渉中に関係諸国間で得られて、そのような用語の解釈が、当時の国際社会で一般的に採用されるに至った。 不戦条約は自衛戦争ではない戦争、つまり侵攻戦争の違法化を意図したものであった。
 この不戦条約の批准に際して、各国の政治家たちが最も不安を感じたのが、この条約によって、自国が行なう正当な戦争を他国から 「侵攻戦争だ」 と非難されるのではないかということであった。 このため、本条約の起草者である米国務長官ケロッグは自国の議員を説得する必要を感じ、1928年( 昭和3年 )4月28日、アメリカ議会で次のような演説をした。

 アメリカの作成した不戦条約案中には、自衛権を制限乃至ないし毀損するが如き点は少しも存しない。 自衛権はすべての独立国に固有のものであり、又あらゆる条約に内在している。 各国家はいかなる場合においても、各条約の規定如何にかゝわらず、攻撃もしくは侵略から自国の領土を防衛する自由をもち、自衛のために戦争に訴うる必要があるかどうかは、その国のみがこれを決定し得るのである。 正当な理由ある場合には、世界はむしろこれを賞讃し、これを非難しないであろう。
( 日本外交学会編『太平洋戦争原因論』 p.491 )

 不戦条約には 「国家の政策の手段としての戦争の放棄」 を謳っているが、自衛のためならば戦争に訴えても構わないし、その必要があるかどうかもその国の判断に任されている。 だから、心配は無用である こうケロッグ国務長官はアメリカの議員たちに訴えたのである。
 このケロッグ長官の演説は国内向けのレトリックではない。 ほぼ同じ趣旨の公文を1928年6月23日付で、アメリカ政府は日本を含む関係諸国に送達している。 その中に次の言葉がある。

 不戦条約のアメリカ案中のいかなる規定も、自衛権をいささかも制限または毀損するものではない。 自衛権は、あらゆる主権国家に固有なものであり、あらゆる条約中に暗黙裡に含まれている。 各国は、いかなる場合にも、条約規定とは関係なく、自国の領域を攻撃または侵入から防衛する自由を有し、かつ自国のみが、事態が自衛のため戦争に訴えることを必要とするか否かにつき決定する権限を有する。
( 『各法領域における戦後改革』 p.79 )

 平たく言えば、アメリカ政府は、自国が行なった戦争が自衛戦争か否かは自国で決定することができるとの留保付で 「不戦条約」 を批准することを各国に求めたのである。 この解釈に従えば、自らが 「侵攻戦争だ」 と宣言しない限り( そんな自国に不利になるようなことをするわけがないが )、国際法上、自らの起こした戦争を他国から 「侵攻」 だと批判されることはないことになる。
 なお、日本政府は1928年7月20日付のアメリカ代理公使宛の覚書の中で、不戦条約に対する日本の解釈がアメリカ政府のそれと同一であることを明らかにしている。
 また、この 「不戦条約」 の原加盟国であるイギリス政府も、批准にあたって次のような留保条件をつけることを宣言した。

 世界には、その福祉と保全とがわが国の平和と安全のために特別かつ死活的な利益を構成する諸地域がある。 イギリス政府は、このような地域への干渉が行われてはならないことを明らかにしようと、過去において努力してきた。 このような地域を攻撃から守ることは、イギリスにとり自衛措置である。 イギリス政府は、新条約はこの点に関する行動の自由をそこなわないという明確な了解のもとに、新条約を受諾するものであることが、明瞭に理解されなければならない。
( 『各法領域における戦後改革』 p.80 )

 当時、イギリスは世界中に植民地をもっていたが、その植民地( 法的には自国領土の一部 )防衛だけでなく、 「わが国の平和と安全のために特別かつ死活的な利益を構成する諸地域」 ― これは直接的には先ずエジプトのスエズ運河の権益を念頭に置いたものと理解されているが を守ることも自衛権の行使とすることを世界各国は了解してほしいと述べたわけである。
 この留保条件によって、不戦条約が認めた 「自衛戦争」 は自国の領域の防衛に限定されないと解釈されることになった。 そこで当時の日本政府は、イギリスにとってのスエズ運河と同じく、日本にとって死活的な利益を構成する地域である 「満洲その他の地域における権益保護」 のために実力を行使することも 「自衛」 の一環であるとの解釈を採用したのである。

 アメリカ政府は、自衛の問題の決定を、いかなる裁判所であれ、それに委ねることを決して承認しないであろう。 また( 他国政府も )この点については同様に承認しないであろう。
( 『各法領域における戦後改革』 p.79 )

と述べ、交戦国の双方がともに 「これは我が国にとっては自衛戦争であり、侵攻( 侵略 )したのは相手国だ」 と主張した場合は、自衛か侵攻かの認定の問題は 「裁判に付し得ない」 ( injusticiable )法的状況にあることを認めたのである。


「『平和に対する罪』 など存在しない」 ( フォン - グラーン教授 )

 東京裁判において検事側は、不戦条約をほとんど唯一の根拠として、 「侵攻戦争は違法」 とし、日本の戦争が 「侵攻戦争であるかどうか」 を裁判で認定する権限は連合国側にのみあり、 「自衛権の発動は、相当に予想される武力的領土侵入の場合に対してのみ許されるのであって、武力包囲とか、いわんや経済包囲に対して許されるものではない」 と主張したのである。
 この主張が米国務長官ケロッグ、仏外相ブリアンの解釈と真っ向から対立することは言うまでもない。 不戦条約を踏まえるならば、日本にとって死活的な権益の存在する 「満洲」 を実力で守り、かつ、連合国の武力的経済包囲網によって国家は危機に陥ったと判断して、戦争に訴え、その行動を自ら 「自衛戦争」 であると解釈する権限を、日本は有していたと判断するのが妥当であろう。
 不戦条約をめぐる連合国側と日本側のそれぞれの主張を厳密に検討した上で、インドのパール判事が、検事側の主張を斥けて次のように述べたのも国際法学者ならば当然のことであった。

 ある戦争が、自衛戦であるかないかという問題が依然として、裁判に付することのできない問題として残され、そして当事国自体の 「良心的判断」 のみにまつ問題とされている以上、パリ[ 不戦 ] 条約は現存の法律になんら付加するところがない
『パル判決書<上>』 p.331

 このパール判事の個別意見を現在の国際法学者の多くが支持している。 例えば、アメリカのミネソタ大学教授ゲルハルト・フォン - グラーンは、

 ドイツ及び日本の被疑者が容疑をかけられている犯罪を犯した頃、国際連盟及びパリ協定の盟約[不戦条約]が存在していたにもかかわらず、主権国が後に侵攻戦争と呼ばれる行為を計画し実行することを禁ずる国際法の規定はなかったということを指摘しておかなければならない。 当時も今日も、 「平和に対する罪」 など存在しないことを支持する理由などいくらでも挙げることができる。
( Law Among Nations, p.773 )

と述べた上で、自衛戦争以外の戦争が不戦条約によって国際法上犯罪とされたとは認めることはできない以上、連合国が主張した 「平和に対する罪」 はでっちあげに等しいと酷評している。
 また、著名な国際法学者でエジプトのカイロ警察アカデミー講師、アーメド・M・リファートも

 現在問題としている世界戦争[第二次世界大戦]が始まった期日まで、国際社会においては、いかなる戦争も“犯罪”とはならなかった。 “正義の戦争”と“不正な戦争”との違いは、国際法学者の学説の中においてのみ存在していたのである。 パリ条約は戦争の性格を変えなかったし、国際社会における戦争に関して刑事上の責任を問うことはできなかった。 戦争はこれまでと同じく法の圏外に取り残されたのであり、戦争遂行のあり方のみが法的規律の下に置かれたのであって、いずれかの戦争を犯罪とするいかなる慣習法も発達しなかったのである。
( international Aggression,p.163 )

と述べている。 東京裁判が行なわれた当時、国際法は 「いかなる戦争をも犯罪とすることはできなかった」 というのが国際法を少しでも知る者の“常識”だったのである。
 また、戦時中のイギリス外交政策の実質的な責任者である英国外務次官サー・アレグザンダー・カドガンも1945年( 昭和20年 )4月23日付覚書に

 これらの行為[平和に対する罪]は通例の意味の戦争犯罪ではなく、またこれを国際法上の犯罪と呼ぶにふさわしいかどうかも明らかではない。
( 『勝者の裁き』 p.69 )

と記していた。 実は 「条例」 を起草するために開かれたロンドン会議でも、フランスの大審院判事であったロベール・ファルコが次のように主張していたことは、注目されよう。

 われわれは、侵略戦争を開始することが犯罪行為である、とは思いません。 戦争が個人の犯罪行為である、というならば、それは現行法を超えていると思います。 将来、侵略戦争を開始した国家が、道徳的・政治的な責任を問われるようになるかも知れません。 だが、現行国際法上、そのように結論することは誤っている、と思われます。 ……侵略戦争の開始のごとき、現に犯罪ではない行為を処罰した、とあとから批判されるようなことは、われわれは望んでおりません。
( 『勝者の裁き』 p.69 )

 仮に 「不戦条約が侵攻戦争を不法化した」 という検察側の主張を認めたとしても、それで侵攻戦争を 「国際犯罪」 とすることはできない。 国際法に違反した行為、つまり 「国際不法行為」 を行った国家には損害賠償、もしくは現状回復の責任が生ずるが、それは 「国際犯罪」 ではない。 犯罪の行為内容、それから犯罪者に対する刑罰、あるいは犯罪行為を認定できる機関、そういう構成要件を定めた国際刑事条約が成立して、その中で、これこれの行為は犯罪であると特定した場合にのみ、あるいはそれと同等の慣習法が熟成した場合にのみ、 「国際犯罪」 は成り立つのである。
 それでは、 「不戦条約」 に、侵攻戦争を国際犯罪とするための構成要件が細かく定められていたか。 否である。 とするならば、 「不戦条約は侵攻戦争を国際犯罪としていない」 というのが国際法学者の“常識″なのである。
 しかし、 こうした国際法の“常識”は無視された。 かくして東京裁判を強行した連合国側の政治家や検事たち、 そして多数派判決を支持した判事たちは、 「国際法無視の事後法( 厳密には“法”とは言えない )をでっちあげた人々」 として、 その悪名を国際法の世界に永く残すこととなったのである。


定義なき 「侵攻」 の濫用を戒めたリファート博士

 そもそも不戦条約では 「侵攻戦争」 についての厳密な概念規定がなされていなかった。
 いかなる行動が侵攻戦争となるのか、その定義すらないのに、多数派判決は1941年( 昭和16年 )12月8日の真珠湾攻撃を論じた箇所において、日本の行動を次のように 「侵攻戦争だ」 と認定したのである。

 [ 真珠湾攻撃は ] 挑発を受けない攻撃であり、その動機はこれらの諸国の領土を占拠しようとする欲望であった。 「侵略[ 侵攻 ] 戦争」 の完全なる定義を述べることがいかにむずかしいものであるにせよ、右の動機で行われた攻撃は、侵略[侵攻]戦争と名づけないわけにはいかない。
( 『勝者の裁き』 p.78 )

 連合国は、日本の戦争は侵攻戦争に決まっているのだから、侵攻戦争の定義があろうがなかろうが、日本は犯罪国家なのだ こう断言したのである。 この判決をマイニア教授は皮肉をこめて次のように痛烈に批判している。

 定義というものは、個々の事例を考察してのちに、下されるべきものであって、はじめに具体的な定式をつくってはならないことは明らかである。 だがわれわれ[連合国]は、侵略が何であるかわからないのに、ドイツと日本が侵略をなしたことはわかっていたことになる。
( 『勝者の裁き』 p.78 )

 また、戦後、エジプトのリファート博士は国際法の厳正な適用を擁護する立場から、国際法の“常識”を無視して東京裁判を行なった当時の連合国の行動に対して次のようなパール判事の見解を引用して、定義なき 「侵攻」 用語の濫用を戒めた。

 [厳密な定義が確立されていない以上 ] “侵攻的”という語のもつカメレオン的性格は、敗戦国側の指導者を意味するだけのものとなるだろう。 だとするならば、国際体制の中に危険な原理を導入し、国際社会における平和的関係を妨害することになるのである。
( international Aggression,p.164 )

 もっとも国際法学者の中には、 「平和に対する罪」 などが事後立法であり、 「侵攻」 の定義が確立されていなかったとしても、ナチス・ドイツの犯罪を罰するために連合国が立法したことは、国際平和を希求する立場から認められるべきではないかと述べる人もいる。 ( しかし、事後法を作成しなくても、ユダヤ人虐殺などの残虐行為については当時存在していた国内刑法で処罰することが可能であった )
 ニュルンベルク裁判所の条例を起草するために開催されたロンドン会議でも、ほかならぬアメリカ代表のジャクソン判事が 「平和に対する罪」 などは当時の国際法に存在していなかったことを認め、だからこそ、同会議は法を制定する権限を有する、と主張した。
 では、何を犯罪と定め、いかにして法を作成するのか。 ジャクソン判事はルーズベルト大統領に提出した報告書の中で、

 何が犯罪であるかを判別するに際して、われわれはアメリカ国民の良心を真底から憤激させ、かつアメリカの自由や文明にとってナチス権力が不倶戴天の敵である、と確信せしめた、あの本能に依拠するならば、決して過ちを犯さないであろう。 ……アメリカ国民のあの本能は正しく、それこそ、ある行為の犯罪性を見分ける基準となるものである、と私は信じる。
( 『勝者の裁き』 p.36~37 )

と述べている。 外国に対しては、ハワイ王国を武力で制圧し、リカルテ将軍率いるフィリピン独立運動を弾圧して植民地とし、国内では土着のインディアンを大量に虐殺して衰微に追い込み、黒人を差別し、日系人を非白人であるという理由で迫害した白人支配者の“良心”“本能”とは何なのか。 ともあれ、このアメリカ=国際正義という、余りにも独善的な主張に対して、1971年、マイニア教授は次のように批判している。

 法がこのように定義されるのであれば、それは連合国側がきわめて強い嫌悪を示していた、ナチスのあの法とほとんど異なるところがないように思われる。 あのナチスの法とは1935年6月28日の法のことであって、それによれば、 「本法に於て処罰すべしと定めたる行為、若は刑法の基本理念及び健全なる国民感情によりて処罰に値する行為を為したる者は、処罰せらるべし」 と規定されていた。 このいずれの場合にも、 「本能」 あるいは 「健全なる国民感情」 に訴えることによって、検察官は、疑わしい行為が法規に違反することを立証せずに、済むわけである。
( 『勝者の裁き』 p.37 )

 いかなる理由があるにせよ、戦勝国による恣意的な事後立法は、それまでの国際法の適正にして健全な形成努力の積み重ねを無意味にしかねない、危険なものだった。 パール判事も指摘しているように 「国際関係において、秩序と節度の再確立に実質的に寄与するものは、真の法律的手続きによる法の擁護以外にはあり得ないのである」 。 政治的動機により実定国際法の蹂躙を敢えて犯した連合国の責任を、世界平和を希求する国際法重視の立場から、私たちは厳しく追求し続けるべきなのである。


日本の外務省も認めている 「東京裁判の不当性 」

 東京裁判が国連国際法委員会や国際法学者によって批判されている現状を、日本政府・外務省はどのように認識しているのか。
 外務省が月例で開催している国際法研究会には、在京者を主とする十数名の国際法学者が出席し、外務省の条約局その他の関係者との間で約2時間ほど特定の問題が議論されている。 平成4年( 1992年 )3月13日に行なわれたこの国際法研究会の席で、佐藤和男教授が次のような趣旨の質問を外務省に対して行なった( 神社本庁研修ブックレット『国際法と日本』 )。
   「 イラクのサダム・フセインがしたことは、世界中から侵攻戦争だと見られている。 イラク軍はクウェートに侵入して、クウェートの領土を自分の国に併合してしまった。 これは侵攻であり、侵略でもある。 侵攻戦争は、1945年10月の国連憲章によって、正式に違法化されている。 東京裁判の論法でゆくなら、フセインは侵攻戦争の責任を負ってA級戦犯にされ、国際裁判で裁かれなくてはいけない。 現に私がヨーロッパにいた1990年9月から1991年3月までの間にサッチャー首相など西側の一部の政治家は、フセインをつかまえて戦犯裁判にかけようと言っていました。 昨年( 1991年 )2月、湾岸戦争はイラクの敗北に終わった。 もし東條元首相などを裁いた東京裁判が正しいのなら、同じような裁判をサダム・フセインに対してもしなくてはいけないのに、実際にはしていない。 これは、どういうことなのか。」
 この質問に、外務省条約局法規課長の伊藤哲雄氏がおおよそ次のように答えたという。

 東京裁判で個人に戦争責任を追及したが、かういふことは国際法では許されてゐない、東京裁判は間違つてゐたといふ認識がいまや世界中の諸国に定着したので、サダム・フセインに悪い戦争をした責任を個人的に追及しようなどといよ動きは全くありません。
( 『国際法と日本』 p.68 )

 この定例会はあくまで内部の研究会ではあるが、東京裁判が実定国際法を蹂躙した不当な裁判であるという認識が世界中の諸国に定着していることを、外務省幹部ははっきりと認めたわけである。 官僚は政府に従う。 政府が断固として東京裁判の不当性を訴えるならば、その訴えを裏付ける論理を用意する準備は官僚サイドには既にできているのである。
 ともあれ、 いまなお平和探求の視点から 「東京裁判」 を肯定的に見ようとする意見があるが、 不公平な法手続きと実定国際法の蹂躙によってかろうじて成立した東京裁判の上に、“法に基づく平和”を確立しようということ自体が矛盾している 国際法の漸進的発達を通じて国際平和を維持・確立しようとするのであるならば、 国際法を蹂躙した東京裁判をまず徹底的に批判するべきなのである。


日本悪玉史観を批判するフリードマン教授

 東京裁判が残した悪例、禍根のは、 「日本と他の諸国との相互理解を妨げることになった」 ということだろう。 東京裁判において、日本はそもそも侵攻的な体質をもっている国だとレッテルを貼られた。 このレッテルは、戦後の日本人の自己認識に暗い影を落としたばかりか、対外関係まで大きく拘束した。 曰く、日本は軍国主義的な体質をもっているので警戒が必要だ。 曰く、だから軍備増強や自衛隊の海外派遣は絶対に認めるべきではない。 曰く、日本のナショナリズムはすぐに侵攻主義的となるので、ナショナリズムに基づいた主張は他の国ならいざ知らず、日本に関しては認めるべきではない と。
 このため、国際問題が起こると常に批判されるのは日本であって、戦勝国のアメリカや中国、ソ連( 現ロシア )ではないということになった。 しかし、それで事態の本質的な理解と解決を図ることができるであろうか。
 日本の侵攻、不意打ちを非難する意見が相次いでアメリカで出され、日米関係がぎくしゃくしたパールハーバー( 真珠湾 )攻撃50周年にあたる1991年( 平成3年 )、『The Coming War with Japan( 第二次太平洋戦争は不可避だ )』 という刺激的な著書を世に問うた米ディッキンソン大学のジョージーフリードマン教授は、

 まともで教育のある人びとがなぜパールハーバーを攻撃する道を選んだのか。 こういうことを理解せずに、ただそれを非難する人びとがいる。 彼らこそが戦争をもっとも起しやすい人なのだ。 当時の日本の指導者たちをモンスターにしたり、日本の置かれた悲劇的な立場を考えもせずに発言する人びとを英雄視したりしても、何の解決にもならない。 解決どころか、このような態度そのものが問題なのだ。
( 「パールハーバーを忘れるな」 『VOICE』 1991年12月号 )

として、両国の立場を客観的に検討することなく、一方的に日本だけを悪玉として描くレッテル貼り的史観は、人々に真の紛争原因の追究を怠らせ、結局戦争を引き起こすことに加担するとして強く批判した。 紛争の真の原因とは何か。

 [ 日米戦争は]悪意や卑劣さから起きるものではない。 また、相互の理解不足から起きるものでもない。 さらには日本とアメリカの文化が似ているから、あるいは違うから起こるものでもない。 それは、双方が危険な世界に住んでいる合理的な国民であることから起きる。
( The Coming War with Japan p.439 )

 日米両国民が互いに善意をもっていたとしても、日米両国はそれぞれ大国であリアジア太平洋の経済的権益を求めるだけの実力と意志をもっている以上、アメリカの利益と日本の利益は衝突せざるを得ない。 その宿命を受け止めた上で状況に応じて国益の対立が戦争にまで発展しないように対策を講じるしか戦争を防ぐ手段はない こうフリードマン教授は指摘するのである。


「アメリカの正義を疑え」 ( マイニア教授 )

 これは究極的には東京裁判とは何だったのかという問いに対する答えにもなることだが、 「アメリカの正義はいつも絶対に正しい」 というイデオロギーが戦後のこれまでの我が国の外交方針を決定したばかりか、アメリカの外交姿勢までも大きく歪めてしまったということだろう。
 マイニア教授はベトナム戦争を見据えながら、その著『勝者の裁き』 を執筆した動機を次のように述べている。

 もしも今日、東京裁判が大芝居であったと結論されるならば、その結論はたんに第二次世界大戦や日米関係に影響を与えるのみならず、より一般的に、国際関係と世界秩序に関する近来のアメリカ式発想の諸前提に対しても影響するところ大である。 このアメリカ式発想の諸前提を再評価することを鼓吹する これが、私か本書を著わした主要な契機であった。 ……東京裁判が大芝居であり、アメリカ式発想の諸前提がきわめて疑わしいものであることを、[ 日本人にも ] 学ぶように望んでいる。
( 『勝者の裁き』 p.5 )

 東京裁判で誇示されたアメリカの 「正義」 は、戦後の国際秩序を支える 「正義」 であった。 戦後日本はこの 「アメリカの正義」 に絶対的に従ってきたといってよい。 そして、このことはアメリカの日本占領の究極の目的が見事に達せられたことを意味している。
 しかし、第二次大戦でアメリカがソ連や中国と組むことで東欧や中国・北朝鮮の共産化を促したことや、ベトナム戦争の実態を見るならば、 「アメリカ式発想の諸前提」 つまりアメリカは常に正義だという考え方そのものが果たして正しいものなのかどうか、疑わざるを得ない。 アメリカ=国際正義という前提は、アメリカの独善的な外交を許し、世界の自由と平和を却って脅かすこともありはしないか。 そうマイニア教授は問題提起している。 それは何もアメリカが不正義であるということではない。 ただ常にアメリカが正義だとは限らないという考え方に立って、時には国際平和のために 「アメリカ式発想の諸前提」 を糺すことも必要なのではないかと言っているに過ぎない。
 この問題提起は、我が国の対米姿勢を根本から問い直すことを追っている。
 我が国では、社会民主党( 旧社会党 )など革新系政党は表面上はアメリカを批判する。 しかし、実際にやっていることは、日本のナショナリズムを抑圧し、東京裁判に示された 「アメリカの正義」 を認め、例えば改憲志向に示される日本の自立路線に反対することで結果的にアメリカの属国化を促進し、もってアメリカ中心の国際体制を補完することにほかならない。
 一方、自民党もまた、米ソの冷戦構造の中で、東京裁判に示された 「アメリカの正義」 を認め、国際正義=アメリカの正義というイデオロギーを進んで容認すること それはつまりアメリカの不正義、アメリカ外交の失敗には敢えて目をつぶり、アメリカを補完する存在に甘んじることだが によって自国の安全保障を図る道を選択してきた。 武装解除された敗戦国家として戦後しばらくはそれもやむを得ない選択だったと思うが、その選択を50年経った今も同じかたちで続けていることについて、対米追従と世界から揶揄・批判・憫笑されている事実に目を瞑るべきではない。
 今や私たちは新たな選択を迫られている。 即ち、アメリカとの関係を重視しつつも、アメリカの主観的正義のみによる国際秩序ではなく、我が国の主体的正義をも国際秩序に反映させることを望む、あるいは自由と平和と繁栄を尊重する諸国とともに、アメリカが政策を誤った場合には時にはそれを糺すことも辞さない、そのような国家として歩むことが求められているのである。
 それはマイニア教授が指摘するように、現在の国際秩序の諸前提にある、東京裁判に示された 「アメリカの正義」 そのものを検証するところから始めなければならない。 東京裁判の再検討は、現在の国際秩序のあり方とともに、これからの我が国の進路選択をも迫る問題として、私たちの前に立ちはだかっているのである。


戦後政治の原点としての〈 東京裁判 〉批判
~ 独立国家日本の 「もう一つの戦後史 」~

  「 文明の裁き」 と称して鳴り物入りで始められた東京裁判は実に2年6ヵ月もの時間を費やし、開廷423回、総計費27億円をかけて1948年( 昭和23年 )11月に判決を下した。 我が国の戦時指導者7人に絞首刑を宣告したこの判決は、弁護団ばかりでなく、少数派の個別意見を提出した判事たちや連合国の政治家だちからも厳しい批判を浴びた。
 いくら国際法に基づいた公正な裁判だったと宣伝しても、真実は隠せない。 「いかさまな法手続」 で行なわれた 「政治権力の道具」 に過ぎなかった東京裁判を強行したことで、GHQ( 占領軍総司令部 )及びアメリカ政府の権威は低下することとなった。 判決が出された翌年の1949年( 昭和24年 )1月11日、アメリカの『ワシントン・ポスト 』 紙は論説に次のように記した。

 米国の声望はもとより、正義の声望までも……東京において危うくされたことが、次第に明白になりつつある。
( 『勝者の裁き』 p.187 )

 GHQは東條元首相らを処刑した1948年( 昭和23年 )12月23日の翌日、準A級戦犯容疑者19名を一度も裁判にかけることなく巣鴨拘置所からそそくさと解放し、以後、法廷は二度と開かれることがなかった。 なお、連合国極東委員会は翌1949年2月24日、 「国際軍事裁判はこれ以上行なわない」 と決定した。
 この東京裁判を、戦後独立を回復した我が国の政治家及び国民が、どのように受け止めてきたかについては、ほとんど知られていない。 このため、我が国は 「東京裁判」 を受け入れることで国際社会に復帰したという誤解が流布されてしまっている。 しかし、真実はそうではなかった。


講和会議で東京裁判を批判したメキシコ大使

 国際法においては通常、講和条約( 平和条約 )の締結・発効によって戦争が正式に終結するものとされる。 それまでは法的には 「戦争状態」 が継続していると見なされるので、いわゆるA級戦犯を裁いた東京裁判や、アジア太平洋の各地で開廷されたB・C級戦犯裁判も、連合国軍による軍事行動( 戦争行為 )の一種と理解されている。 しかし、軍事行動は講和条約の発効と共に終結し、効力を失う。
 つまり、昭和27年( 1952年 )4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効とともに、国際法的には日本と連合国の間に継続していた 「戦争状態」 は終焉し、独立を回復した日本政府は、講和に伴う 「国際法上の大赦」 を規定する国際慣習法に従って、戦争裁判判決の失効を確認した上で、連合国が戦犯として拘禁していた人々をすべて釈放することができたはずなのである。
 ところが、そうはならなかった。
 講和条約を起草したのはサンフランシスコ講和会議であるが、この会議で署名された条約草案は、アメリカ、イギリス、日本の3ヵ国間交渉で起草され、最終案文は、会議の始まる僅か1ヵ月前に発表され、それ以外の49の参加国は、基本的にはそれを承認するために招請された。 その講和条約第十一条には、

 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。 ……極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限[赦免し、減刑し、及び仮出獄させる]は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。

と規定されていた。 本来ならば、日本政府は講和条約の発効とともに、戦犯として拘禁されていた者を釈放していいはずだが、アメリカは、講和独立後も、アメリカの 「審判」 に従った刑の執行を日本政府に要求したのである。
 1951年( 昭和26年 )9月5日、サンフランシスコ講和会議が開かれた。 この会議で、スリランカ代表のJ・R・ジャヤワルダナ蔵相( のち首相、大統領 )が、 「私は、前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである」 として、日本の独立回復を支持する格調高い演説をしたことは有名である。
 この会議の席で、日本に対して懲罰的な講和条約第十一条がやはり問題となった。 ラファエル・デ・ラ・コリナ駐米メキシコ大使はメキシコ代表として、

 われわれは、できることなら、本条項〔第十一条〕が連合国の戦争犯罪裁判の結果を正当化しつづけることを避けたかった。 あの裁判の結果は、法の諸原則と必ずしも調和せず、特に法なければ罪なく、法なければ罰なしという近代文明の最も重要な原則、世界の全文明諸国の刑法典に採用されている原則と調和しないと、われわれは信ずる。
( 『各法領域における戦後改革』 p.89 )

と東京裁判を批判し、アルゼンチン代表のイポリト・ヘスス・パス駐米アルゼンチン大使も、

 この文書の条文は、大体において受諾し得るものではありますが、二、三の点に関し、わが代表団がいかなる解釈をもって調印するかという点、及びこの事が議事録に記載される事を要求する旨を明確に述べたいのであります。 ・……本条約第十一条に述べられた法廷 「東京裁判」 に関しては、わが国の憲法は、何人といえども正当な法律上の手続きをふまずに処罰されない事を規定しています。
( 外務省編『サン・フランシスコ会議議事録』 p.299 )

と語り、 「正当な法手続きを踏まずに日本人指導者を処罰した東京裁判は、アルゼンチン憲法の精神に反している」 として、東京裁判を間接的に批判したのである。 しかし、メキシコ、アルゼンチン両代表の発言は記録にとどめられただけで、草案の文言はそのまま条約本文となった。


日本は東京裁判史観を強制されていない

 最後のB・C級戦犯が釈放された頃から、60年安保騒動を直接の契機にして反米親ソの革新勢力の台頭が見られ、世の中は 「革命前夜」 の様相を呈してゆく。
 このため、東京裁判否定の熱意を受け継ぐべき保守政治家たちは、米国との協調・友好を重視するあまり、米国の戦争責任追及=反米につながりかねない東京裁判否定論をトーンダウンさせていく。 一方、革新勢力は、ソ連・中国のマルクス主義歴史観に強い影響を受けながらマスコミや日教組と手を組み、“東京裁判史観”の普及に、これ努めることになったのである。
 かくしてマスコミや革新勢力の支援の中で、GHQの協力を得て結成した日本教職員組合( 日教組 )が、GHQの 「戦争犯罪周知宣伝計画」 に基づいて作成された 「歴史教科書」 を使って行なう歴史授業によって、アメリカの 「審判と慈悲に絶対的に従う」 従属政権の樹立を促進しようとしたGHQの意図は、徐々に日本の若い世代の間で実現していくこととなった。
 昭和57年( 1982年 )、歴史教科書の記述を文部省が検定で 「侵略」 から 「進出」 に書き換えさせたとして( これは後に誤報であることが判明した )、中・韓両国から大きな反発を招いた、いわゆる 「教科書事件」 が起こった。 近隣諸国から激しく批判され、時の宮澤喜一官房長官( 自民党 )は、事実関係をろくに調べないまま、批判を全面的に受け入れた上、 「わが国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判( 韓国、中国からの批判 )に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 という談話を発表するに至った。 近隣諸国との友好のためには、東京裁判の判決に示された歴史観を受け入れるという、独立回復後の国会決議とまるで正反対の趣旨の談話が表明されたことになる。
 以後今日に至るまで、残念ながらこの談話が追認される方向で進んでいるのである。
 敵国によって“A級戦犯”とされた人々を靖国神社に合祀したことをめぐって再び近隣諸国を巻き込んだ形での問題が起こり、そのさなかの1985年( 昭和60年 )11月8日 衆議院外務委貝会で土井たか子議員( 社会党 )は 「戦犯は日本も受けいれた東京裁判によって“平和に対する罪”で処刑されたのであり、戦没者とは違う。 どうして戦犯を祀っている靖国に参拝するのか」 と質問した。 同じ社会党の先輩女性議員が、戦犯とされた人々が靖国神社にお祀りされていないことを嘆く遺族の人々の心情を代弁して、戦犯釈放運動を熱心に推進していたことなど、知りもしなかったのであろう。
 この土井発言を補足するように、昭和61年( 1986年 )8月19日、衆議院内閣委員会で後藤田正晴官房長官( 自民党 )が、東京裁判について 「サンフランシスコ対日平和条約第十一条で国と国との関係において裁判を受諾している事実がある」 と述べ、東京裁判の正当性を認めることが政府の統一見解であるとの考えを表明した。
 この時期、サンフランシスコ講和会議でも問題とされた講和条約第十一条に 「裁判を受諾し」 との一節があることから、日本政府は第十一条のゆえに講和成立後も、東京裁判の 「判決」 中の 「判決理由」 の部分に示された、いわゆる 「東京裁判史観」 の正当性を認め続けるべき義務があると、一部学者たちが強硬に主張していた。 その主張に、土井氏や後藤田官房長官は安易に飛びついたのだろう。
 この主張の論拠の一つが、第十一条の日本文に 「裁判を受諾し」 とあることである。 しかし、日本政府が 「受諾」 したのは 「裁判」 ではなく、 「判決」 であった。 それは、日本語と等しく正文とされる英・仏・西語で書かれている条約文を見れば一目瞭然である。 日本文の 「裁判を受諾し」 にあたる部分は、英語では、accepts the judgent ( 判決を受諾する )、フランス語でも、accepte les jugements prononces( 言い渡された判決を受諾する )、スペイン語でも、acepta las sentencias ( 判決を受諾し )となっている。 日本が講和条約第十一条において受諾したのが 「裁判」 ではなく、 「判決」 である以上、日本は 「東京裁判史観」 まで受け入れたことにはならないのである。 国際法の専門家である佐藤和男教授は国際法学界でのやり取りも踏まえ、次のように指摘する。

 第十一条の規定は、日本政府による 「刑の執行の停止」 を阻止することを狙ったものに過ぎず、それ以上の何ものでもなかった。 日本政府は第十一条の故に講和成立後も、東京裁判の 「判決」 中の 「判決理由」 の部分に示されたいわゆる東京裁判史観( 日本悪玉史観 )の正当性を認め続けるべき義務があるという一部の人々の主張には、まったく根拠がない。
 筆者は昭和61年8月にソウルで開催された世界的な国際法学会〔ILA・国際法協会〕に出席した際に、各国のすぐれた国際法学者たちとあらためて第十一条の解釈について話し合ったが、アメリカのA・P・ルービン、カナダのE・コラス夫妻( 夫人は裁判官 )、オーストラリアのD・H・N・ジョンソン、西ドイツのG・レスなど当代一流の国際法学者たちが、いずれも上記のような筆者の第十一条解釈に賛意を表明された。 議論し得た限りのすべての外国人学者が、 「日本政府は、東京裁判については、連合国に代わり刑を執行する責任を負っただけで、講和成立後も、東京裁判の判決理由によって拘束されるなどということはあり得ない」 と語った。 これが、世界の国際法学界の常識である。
( 『各法領域における戦後改革』 pp.100~101 )

 独立回復後の日本の政治家たちは、 「勝者の裁き」 を敢然と拒否することこそが 「わが国の完全独立」 と 「国際親交」 につながると信じたが、それは 「自己解釈権」 を取り戻した独立国家として、極めて当然かつ正当な行動であった。
 こうした戦後政治の原点を踏まえ、私たちは、国際法上、敵国の軍事行動の一環であった 「東京裁判」 の判決にとらわれることなく、歴史の再検証と東京裁判の克服を堂々と世界に訴えていくべきなのである。 そうすれば、いわゆる東京裁判史観を日本に強要したいと考えている中・韓両国などは猛然と反発するだろうが、その一方で世界の国際法学者や識者たちが、あるいは反東京裁判史観を奉じるインドを始めとするアジアの識者たちが、必ずや私たちの主張を断固支持・支援してくれるに違いない。


第二次東京裁判の開廷を提唱するエドワード弁護士

 事実、東京裁判の見直しを提起する外国の識者も存在する。 インドの独立運動の指導者の一人、ヘランボ・ラル・グプタは昭和39年( 1964年 )に次のように語った。

 極東国際軍事裁判、即ち東京裁判は、二十一世紀に入れば必ず多くのアジアの国々によって見直されるであろう。 そして第二回東京裁判が実現する。 その頃はアジアも世界も良識をとりもどし、すべてが公正にして真理の法の前の平等に裁かれる。 その時こそ東亜積年の侵略者である欧米列強の英雄達は、こぞって重刑に処せられ、かつて東京裁判で重罪をこうむった日本人、なかんずくA級戦犯の七柱は、一転して全アジアの救世主となり神として祀られる日がくるであろう。 またそのようになるべきであろう。
( 草開間省三『インド独立秘話』 p.5 )

 このグプタの訴えが届いたわけではないだろうが、第二次東京裁判は意外なところから既に提唱されている。 オーストラリアの勅選弁護士で、国際法律家協会の委員などを歴任したエドワード・セント・ジョンは、戦後、世界が核の恐怖に脅えなければならなくなった原因の一つは、東京裁判で、原爆を投下したアメリカの責任が追及されなかったことにあるのではないかと考え、その著『Judgment at Hiroshima( 邦題『アメリカは有罪だった』 )』 の中で、次のように問題提起を行なった。

 1945年8月6日と9日に、広島、長崎に原爆が投下された際、米国の指導者はもとよりその責任を追及されなかった。 だが、法に照らしてみると、広島の大惨事、およびその後全世界の人々の心に植えつけられた核兵器による大虐殺の恐怖に対する責任を米国の指導者に追及する裁判が開かれてしかるべきではなかっただろうか?・・・・・・・
 第二次世界大戦中のドイツの戦争犯罪者たちは今もなおドイツ、フランス、オーストラリアなど、各国で裁かれている。 それなら、米国の指導者たちも、この史上最大の罪、すなわち人類の未来を脅かしかねない、半世紀を経ても消えることのないこの罪を、むしろ今なお増大する核兵器によって全人類を大量殺戮の危険にさらした罪を、追及されてしかるべきではないだろうか?
( 『アメリカは有罪だった 上』 pp.1~2 )

 こう考えたエドワード弁護士は1993年に刊行したその著の中で、架空の法廷を設定して自説を展開させた。 1994年6月26日、日本、ニュージーランドをはじめとする15ヵ国が広島に国際司法裁判所を開廷し、アメリカ合衆国大統領を1945年8月6日からこの日まで 「増大する核兵器によって全人類を大量殺戮の危険にさらした」 容疑により告訴したという設定のもと、アメリカの戦争責任を次のように追及したのである。

 もしも第二次世界大戦後、すべての国の戦犯を対象とした公平な裁判が聞かれていたら、戦時中の連合国の指導者であったスターリン、チャーチル、トルーマンらも等しく裁かれ、有罪を宣告されていたと考えるのは、これらの国の人々にとって不愉快だが有益なことであろう。 とりわけポーランド、バルト諸国、フィンランドおよび日本に対するスターリンの侵略行為は否定しようのないものであり、チャーチルは、ドイツ市民に対するたび重なる空からの殺戮行為によって有罪を宣告されていたであろう。 また、トルーマンは東京に対する恐怖爆撃、および広島、長崎における原爆投下という非道をきわめていた。
( 『アメリカは有罪だった 上』 pp.202~203 )

 この、第二の東京裁判とも言うべき架空の法廷において、エドワード弁護士は、検事の口を借りて、米英仏ソという東京裁判を主導した国々が犯した戦後の多くの戦争犯罪を容赦なく糾弾した。 そして、広島への原爆投下からちょうど50年目の1995年8月6日、アメリカ大統領に対して、 「増大する核兵器によって全人類を大量殺戮の危険にさらした罪」 で、有罪を宣告している。
 なぜ戦後、全人類は核兵器の恐怖に脅えなければならなかったのか。 アメリカが東京裁判において、原爆投下の罪を免罪にしたばかりか、侵略国日本を懲罰するために原爆は必要だったという悪質なデマを流し、原爆投下を正当化したからだ
 私たち日本人が戦後独立を回復した後、真っ先に叫ばなければならないことを、このオーストラリアの弁護士はある意味で見事に代弁してくれたのである。 連合国の戦犯裁判で殺された一千名余の日本人の名誉回復と、誤った歴史観の払拭のためばかりではない、国際正義の観点から、私たちは東京裁判の全面的な見直しを世界に訴える時を迎えているのである。


東京裁判批判という国際正義を日本は掲げよ

 欧米諸国には、東京裁判を批判し、或いは連合国の戦争責任を追及する識者が意外なほど多い。 また、パール判事の出身国インドでも東京裁判研究は盛んである。 〈 東京裁判 〉批判論は日本でしか通用しないというのは勝手な思い込みに過ぎない。 これら世界の学者との交流を深めていけば、〈 東京裁判 〉批判は国際的な広がりと支持を得ることができると思われる。 東京裁判という国際軍事法廷において我が国が貼られた 「侵略国家」 というレッテルを、世界の学者との交流を通じて国際的に跳ね返したい。
 連合国側がなぜ東京裁判を行なおうとしたのか。 結論から言えば、敵国の哲学( 民族精神 )を粉砕し、連合国の意のままになるように“精神的”国家改造を行なうことが占領政策の目的であり、東京裁判はその目的達成の手段の一つであった。 国際正義に基づいた 「国際裁判」 と称したが、その実態は連合国による“武器なき”軍時作戦の一環であった。 連合国は停戦後も、東京裁判という軍事作戦を行ない、日本人の民族精神を抹殺しようとしたのである。 勿論、こうした政策が国際法上許されるはずもない。 そこで連合国側は、日本政府が 「ポツダム宣言」 を受諾し、“条件付終戦”に応じたのにも拘わらず、 「無条件降伏したのだから日本は連合国の政策を受け入れよ」 と虚偽の政治宣伝を行ない、自らの行動を正当化したのである。 その意味で、東京裁判を克服するためには、 「日本は無条件降伏をした」 という連合国側の悪質な宣伝を批判するところから始めるべきであろう。

 さて、世界の識者の〈 東京裁判 〉批判のポイントは大別して二つある。

 一つは、極東国際軍事裁判所は日本だけを裁き、連合国側の戦争犯罪を不問に付したという意味で、不公平な裁判所であったということである。 このため、戦争責任はあたかも日本だけが追及されるべきものだという先入観が日本のみならず世界中に植え付けられてしまった。 しかし、これはよくよく考えれば奇妙な話である。 連合国側も原爆投下や都市無差別爆撃といった国際法の違反行為をしているし、そもそも欧米諸国がアジア諸国を次々と支配し、排他的な経済ブロックを形成しなければ、日本は戦争に訴えてまで資源を確保しなくともよかった。 戦争責任は、連合国側にも求められるべきであったのである。

 批判のもう一つのポイントは、東京裁判は実定国際法に反していたということである。 裁判が成立するためには法律が必要であり、東京裁判の場合、その法律にあたるものは連合国の委任を受けてマッカーサー司令官が制定した 「極東国際軍事裁判所条例」 であった。 この 「条例」 は、不戦条約を曲解することで事後に新しい罪をでっち上げ、国際法上なじみのない理論を導入するなど実定国際法に大きく反したものであった。 東京裁判は、連合国による許しがたい不法行為であったのである。

 このことは、日本の加害責任なるものをあげつらう人々さえも実は認めている。 ところが、それらの人々は 「国際法上問題があったにせよ、世界平和を確立するためには日本の戦争犯罪を厳しく断罪することがどうしても必要だった」 と連合国の言い分をそのまま繰り返し、 「東京裁判はその後の国際平和探求の観点から見れば意義あるものであった」 として、もっともらしい〈 東京裁判 〉肯定論を展開している。 しかし、東京裁判は結局のところ 「敗者は戦争犯罪人として処刑され、戦勝国側の戦争犯罪は免罪れる」 という悪例を残したに過ぎず、国際法を退歩させただけであった。 国際法の漸進的発達による世界平和を願うならば、私たちはむしろ〈 東京裁判 〉を積極的に批判するべきなのである。
 敵国によって 「戦争犯罪人」 という不当な烙印を押されたわが国の人々の名誉回復を図ろうとすると、往々にして 「過去の反省が不足している」 などと非難されがちだ。 しかし、ひるむことはない。 「戦犯」 の名誉回復は、東京裁判によって損なわれた国際法の権威の回復でもある。 世界平和を願い、国際法を擁護するからこそ、私たちは 「戦犯」 の名誉回復に立ち上がるべきなのである。
 実は、講和独立直後の我が国の政治家たちはそう考えていた。 現在、 「我が国は、東京裁判を受け入れることで国際社会に復帰した」 というマスコミの宣伝を信じ込んでしまっている人が多いが、当時の国会論議などを丁寧に追っていくと、意外なことに社会党代議士でさえ東京裁判を敢然と批判している。 勝者の裁きを否定し、 「戦犯」 の名誉回復を図り、連合国によって奪われた 「歴史解釈権」 を晴れて取り戻した 「完全な独立国家」 として国際親交に努めたい …… これも紛れもなく戦後政治の原点の一つであった。 昭和の戦後史もまた大幅に書き換えられなければなるまい。